小説:『生活支援アプリケーション「オレのヨメ」』

1.
 まず最初に、その人には個性があった、と記しておこう。これにどの様な意味があるのかと気になるだろうが、私にはこの様にしか表現できない。裏を返せば、これが私なりの個性の表し方だと思ってほしい。
 個人的に、個性とは選択の連続から生成させるものであると考えている。私が好んで食す主菜も極力避けようとする臭気も、それが自分にとってどの様な影響を与えるのかによって取捨選択を繰り返している。そうしていく内に、自身について理解していくようになり、やがて個性という形で納得するのだ。
 それができたのなら、その人は多少なりとも現代に異を唱える希望となっただろう。もっとも、変化を一蹴する者が未だ常識の基準となっている世の中では、その様な人はむしろ目障りに思うかもしれない。二〇四八年、あるいは二一世紀半ばである現代においても、これだけは変わる様子を見せない。
 故に、彼女の様なプログラムが若者に押し付けられるのも、それをより未来まで引き継がせるためなのかもしれない。その人がどの様に彼女を向き合っているかは分からないが、私からすれば、ただただ危険としか評価できない。
 もともと、彼女はアニメオタクに向けた生活管理用のアプリケーションだった。
 二〇一八年、動画サイトでバーチャル実況者と呼ばれるインターネット上のアイドルの様なものが流行し、国内の企業ですら注目していた。話題が広がる中、独自のキャラクターで動画作成をする者も表れ出し、より簡単にそれを作れるアプリケーションも自然と増えていった。裏を返せば、多くの人が自分だけのアバターを作成することに夢中になっていたのだ。
 当時、会社業務のいくつかにAIの導入が検討されていたこともあり、そちらの技術で活躍する人材にも困らなかった。むしろ、彼女ほどの頭脳を、基礎的な部分だけでも、たった一〇年で完成させてしまうくらいなのだから、相当な数の技術者がいたのだろう。その腕がさらに二〇年後にはどうなっているかなど、考えるまでもない。
 独自のアバター。高度なAI。ジャパニメーションを愛する消費者への需要を考えれば、彼女が作られるのは当然だ。携帯端末に特化したアプリケーションにすることで、より身近な存在に感じられる。『生活支援アプリケーション「オレのヨメ」』と名付けた人は、鼻高々に公表したことだろう。

(続く)

作・奥部 裕